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武将の姿を刻む

十二人の武将はそれぞれ、自身の存在を雄弁に語る兜(kabuto)を身につけていました。その兜は、彼らの血統、信念、そして野望を宿し、戦場において一目でその主を識別させました。国を統一した将軍、徳川家康は長寿を象徴する蕨を。本多忠勝は神聖な守護の証として鹿の角を掲げました。酒井忠次は、その家紋を剣の形に象りました。十二人の指揮官、十二の個性的な印。それぞれが、この歴史を守り伝える歴史家や甲冑師との綿密な協議のもと、丹念に研究され、再現されています。

徳川家康

12時

1543-1616

長く続いた平和と安定の世を築いた、忍耐強き設計者。人質として、同盟者と して、そして臣従する大名という立場で長い歳月を重ねた家康は、関ヶ原の戦 いで勝利を収め、日本統一を成し遂げました。 1603年、家康は徳川幕府を開き、以後およそ260年にわたる政治秩序の基盤を 築きました。彼の真価は軍事的な勝利だけにとどまらず、儒学的な忠誠観や身 分秩序を重んじる理念を統治に取り入れ、新たな国家の仕組みを構築し、長期 にわたる平和と繁栄の基盤を整えたことにあります

本多忠勝

1時

1548-1610

「死をも超えた武将」。徳川四天王の一人で、生涯五十七戦無傷の逸話で知ら れる忠勝。 姉川、三方ヶ原、小牧・長久手、そして関ヶ原といった重要な合戦に加わり、 徳川家の覇権確立に尽くしました。また戦場での武功だけでなく、その忠誠心 と高潔さによって後世には徳川家臣の道徳的規範を体現する存在として語られ、 名誉と実力が両立し得ることを示しました。

酒井忠次

2時

1527-1651

徳川四天王の長老格。忠次の知略は、織田信長との緊張をはらんだ同盟関係や、 信長の死後に続いた複雑な政局を乗り切るうえで、家康の大きな力となりまし た。 その行政手腕は戦場での武勇を補い、徳川家の統治基盤の形成にも貢献しまし た。関ヶ原の戦いを迎える前に没したものの、その功績はのちに関ヶ原での勝 利を支える忠義に厚い徳川家臣団を形づくりました。

水野勝成

3時

1564-1651

徳川家康の従弟。勝成は天下統一に向けた一連の戦いを通じて武功を挙げました。関ヶ原合戦では大垣城の抑えにあたる部隊を指揮し、東軍の勝利後、同城の降伏を受け入れました。戦乱から平和へと時代が移り変わるなか、87年近い生涯を送った勝成は動乱の過去と安定した時代とを結ぶ生きた架け橋となり、新たな秩序を築いた者たちの不屈さを示す証しとなりました。

榊原康政

4時

1548-1606

揺るぎなき守護者、徳川四天王の一人。関ヶ原の戦いに向かう途上、康政は徳 川秀忠軍に従って上田城攻めに加わり、秀忠を守る重臣として軍を支えました。 康政の揺るぎない忠誠心と的確な判断力は、数十年にわたる戦乱を家康が生き 抜くうえで欠かせない支えとなりました。康政はその生涯を通じて、真の強さ とは最も大切なものを守ることにある、という信念を体現しました。

伊達政宗

5時

1567-1636

北国の「独眼竜」。天下統一を決した主要な戦いに本格的に加わるには若かっ たものの、政宗は徳川方の東北方面を固めました。関ヶ原の戦いでは東北で敵 対勢力と戦い、西軍への増援を阻みました。 仙台藩主として、政宗は日本有数の豊かな藩を築き、海外との外交も進めまし た。その歩みは、自らも実現に寄与した平和のもとで花開いた文化を体現する ものでした。

板倉勝重

6時

1545-1624

民政秩序の礎を築いた行政官。勝重は江戸町奉行を経て江戸幕府の初代京都所 司代となり、泰平の時代の都市行政を支える基盤を築きました。 朝廷や仏教寺院との関係を調整しつつ思慮深く京都を治めることで、徳川の統 治が安定をもたらすことを示しました。その功績は武功ではなく行政にありま したが、武功に劣らず不可欠なものでした。

黒田長政

7時

1568-1623

伝説的な軍師・黒田官兵衛の子である長政は、戦場でも外交でも並外れた力量 を示しました。関ヶ原では勇戦したほか、西軍総崩れのきっかけとなった小早 川秀秋の寝返りを促す交渉でも、決定的な役割を果たしました。 父が秀吉の天下統一に尽力したのに対し、長政はその体制を崩す一翼を担い、 より長く続く新たな秩序の形成に貢献しました。福岡藩初代藩主として、その 後何世紀にもわたって栄える藩の礎を築きました。

細川忠興

8時

1563-1646

洗練された文化的感性を備えた武将・忠興は、当代屈指の師たちのもとで剣術 と茶の湯の双方を究めました。関ヶ原では東軍のために奮戦、その一方で愛妻 ガラシャは西軍の人質となることを拒み、家臣に自らを討たせました。 後に細川家の領国となった熊本は、文化と繁栄の中心地となりました。忠興は、 戦国から泰平の世へと移る時代を象徴する、武人であると同時に教養ある領主 でもある姿を体現しました。

井伊直政

9時

1561-1602

勇猛さで恐れられた「井伊の赤備え」を率いた直政は、断絶しかけていた井伊 家を再興し、のちに徳川四天王の一人に数えられました。関ヶ原の戦いでは赤 備えを率いて先駆けの攻撃を行い、戦端を開きました。 直政は武勇だけでなく交渉でも卓越した手腕を示し、諸大名を東軍の味方につ ける重要な役割を担って、東軍の勝利を確かなものにしました。家康の家臣の 中でも最大の恩賞を授けられ、後に有力となる彦根藩の礎を築きました。

浅野長政

10時

1547-1611

豊臣秀吉と姻戚関係にあり、五奉行の一人でもあった長政。秀吉没後の不安定 な政局のなか、長期的な安定を実現するには家康を支持することが最善の道だ と見定め、豊臣から徳川へと主導権が移る危うい転換期を巧みに切り抜けまし た。 長政も平和の実現に力を尽くし、子孫はそのもとで繁栄しながら何世代にもわ たって広島を治めました。

加藤嘉明

11時

1563-1631

水軍戦の名将であった嘉明は、関ヶ原の戦いで東軍の先陣に加わり、その決定 的な勝利に貢献しました。 戦後、その功により伊予松山を治めることとなった嘉明は、瀬戸内海が戦乱の 舞台から平和な交易の大動脈へと変わるなかで、培ってきた海事の知見を生か しました。のちに、日本最大級の藩の一つである会津藩の藩主となりました。

製作中